1. 原点は「那須の大地」

春には何種類もの山菜が、夏には鮎、天然うなぎが、秋になればきのこが取り放題。「素朴」の一文字で足る、清らかな川と山々の自然に囲まれた、恵あふれるところです。
2. 私を育てた「母の背中」
その反面、仕事は農業か山仕事(林業)しかありませんでした。母は私を背負って山に入り、私をそばに置いて、林を切り開いては移動しながら建築資材となる「シノ竹」を取って収入を得ていました。昔、シノ竹は、編んで土壁を塗るための壁の下地材として使われていました。
そんな母の背中を見て育った私は、小学校3年の頃には一人で山に出かけ、「シノ竹」を切り集めていました。今でいうアルバイトのようなもので、小学校の修学旅行の費用などを貯めていたことを思い出します。
3. 15歳の目に映った衝撃映像

今の柏を考えたら笑い話ですが、その頃、5階建てのビルが幾つあったでしょうか。高くても2階建ての建物しか見たことがなかった私の衝撃は当然かも知れません。
4. 住まい造り1年生

兄弟子と6畳間に6人の共同生活で、早朝の作業場の掃除、週2回のお風呂焚用の蒔き割り、全てが初めての経験で、辛いとか、嫌だと思ったことは一度もありませんでした。
5. かあちゃんの懐はでっかい
覚悟を決めて就職しただけに、意外と平気に修行時代を過すことができたと思います。
しかし、何よりも、親方の家族や兄弟子たちに恵まれたからと感謝しています。そんななかでも、親方の奥さんは凄い人でしたよ。家族となんら変わりなく、弟子全員の食事のしたく、お弁当作り、下着の洗濯と、朝早くから夜遅くまで本当によく面倒を見てくださいました。お陰で何不自由なく修行時代を過ごすことができました。
6. オヤジの存在もでっかい

いつもであれば、親方が怒るのに、その時は一言も怒る言葉を言うことはありませんでした。
あとで考えると、道具の手入れをしていた姿を、親方はしっかりと見ていたようです。
親心なのでしょうか。「これからは、お前の親父は俺だからな。」私に父親がいないことを知っていて言ってくれたこの言葉が今も心に残っています。
7. 資本は頑丈な体、それだけで独立開業
親方の下で「住まい造り」の第一歩を踏み出してからわずか8年。今考えるとなんて無謀なことだったかと体が震える思いですが、ある仕事がきっかけで、今までのようにアルバイト的に仕事をするには、依頼を受けた仕事が大き過ぎると考え、思い切って独立をしてしまいました。23歳独身。家もない、金もない、工場もない、ないないづくしの私にあったのは、母親にもらった頑丈な身体と、まだ、未完成の技だけでした。
8. 建築に没頭した日々

休日もなく、睡眠時間が3時間という日が何ヶ月も続いたこともあります。
遠くの現場は、往復の時間がもったいないので、車中で寝泊りをしたことも。独身でしたから、留守番電話のメッセージを聞くためだけに、とんぼ返りを繰り返したこともありました。
今の様に携帯電話があったらどれ程時間を有効に使えたことか。今では懐かしく、良い思い出になっています。
9. 太田建設作業所の完成は分岐点

そうしていくうちに、扱う材料が増えたりして、親しい材木屋さんの片隅に「太田」と書いて間借りしていた場所が手狭になり、自由に材料や道具を置く場所が必要になっていました。
しかし、まだ仕事も始めたばかり、土地を買うお金などある訳がありません。
そんな悩みを聞いて、空いている土地を貸してくれるという知人がありました。しかも、お金もいらない、と。仏様に見えましたね。お金がないのに作業所が欲しいという無理な願いをかなえることができたのですから。
今では柏市沼南ですが、当時は沼南町小野塚台の地に、太田建築作業所が完成しました。
10. 包丁が結んだ近所の奥さんたちとの縁
作業所ができて、仕事の取り組みが変わりました。
作業所のメリットを最大限に生かすことにしたのです。
茨城の製材所に直接交渉し、トラック数台分もの木材を現金買いすれば、より良い材料をより安く仕入れることができます。
作業所に機械を入れれば、加工仕事もスムーズに進むようになります。
こうしていくうちに、店の内装などの仕事も多くなっていきました。
さらに、作業所の近所の方とのコミュニケーションが生まれて、今まで縁のなかったお客さまが増えました。それには私も工夫をしました。ご近所の奥さま対象に集まっていただいて、家庭の包丁の刃こぼれや、錆びを一丁100円できれいにし、集まったお金を町会に寄付するというもので、イベントは2ヶ月に1回、お茶や、お菓子を持って集まっては色々な話に花が咲いたものです。こうしたご縁が仕事に繋がっていくことになりました。
11. やっと手にした我が家

土地を探し、作業所と事務所併用の建物を建て、翌年には、株式会社として法人登記をし、名称を「太田建設株式会社」と変更しました。
これが、現在、柏市高田にある本社です。もちろん銀行から大きなお金を借りることになるのですが、26歳の若造が随分と思い切ったことをしたものです。銀行もよくOKを出したものですね。
12. 根っから大工。太田次男という男
太田建設株式会社としてのその後の事は、会社経歴のとおりですが、法人登記をするまでを振り返ってみて、本当に色々な方に助けられ応援をして頂いたと、言葉では表せないほどの感謝をしています。今でもお付合いいただき、ご指導いただいている方もあります。
父親は、私が小学3年の時に亡くなり、母親も平成18年に83歳で亡くなって、親と呼べる者はいなくなってしまいましたが、まだ、仕事の上での「オヤジ」は元気です。最近足が痛いと言いながらも、山を駆け回っていますが、いつまでも元気でいて欲しいと思っています。
13. お袋さんへの想いが「大工職人」の道へ

そこから猫殿が自由に行き来していた訳ですが、栃木県の那須の山奥で、外部の窓が障子一枚って、どう思いますか。今と違って軒下には、長さが50cmほどのツララが下がる季節の寒さは想像がつかない極寒の時代・・・身体が丈夫だったのですね。もちろん天井などありません。囲炉裏の煙を出す為に、両側の屋根の三角部分は抜けていて、雪が風にのって家の中に積もるまではいきませんが、うっすらと白くなる事もあります。
でも、この家も父親が亡くなってから、母親一人で建てた家ですが、これが精一杯だったのでしょうね。
そんな家で育った私が、自分の手で、自分の思ったような家を建てたいと思い、また、母親に家を建ててあげたいという思いが、この「大工」の道を選んだ本当の理由です。
14. お袋さんの夢が、大工職人の目標が、実現
子供の頃に、病気で親を亡くし、その事がきっかけで医者になるという話を聞いた事がありますが、それに似た思いだったのでしょうか。母親には、昭和59年に元々の実家の近くに土地を買い、母親の為の家を新築することが出来ました。生前、母親が「夢みたいだよ」って言っていましたが、私にとっての目標も実現することが出来たのです。
15. 誰でも安心して生活できる「住まい造り」を

世界規模で起こっている異常気象による現象、地球温暖化に向けた住まい造りが必要とされている中、「外断熱工法」によって、環境に左右されないような住まい造りを推進し、一人でも多くの方に安心して住んでいただける住まいの提供を目指してまいります。








